聖書:ルカ12:24~34 御国が近づいている⑤
12:24 烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。
12:25 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
12:26 こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。
12:27 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。
12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。
12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。
12:30 これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。
12:31 むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。
12:32 小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。
12:33 自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。
12:34 あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。
昨年から「御国が近づいている」というテーマでも語っている。今の時代をどう捉えるかということと、私たちが聖書に照らしてどう生きるかということについて語りたい。
Ⅰ.鳥(カラス)と草花への顧み
並行箇所のマタイ6章でのイエス様の言葉は空の鳥、野の花だが、ルカ12章では鳥(カラス)と草花になる。カラスは南米、ニュージーランド以外世界中に生息している。人間生活に近いので民話、俗信にも多く登場する。カラスは種まきはできない、刈り入れもできない、納屋も倉も持たないが、神様が養われている。草花は働けない(屋外労働)、紡ぐこと(家内労働)もできないが、神様は美しく装ってくださる。誰も目を止めないカラスも、明日枯れるかも知れない草花も神様は顧みておられる。最高の存在として造られ、個人個人も特別に造られた私たちを神様が顧みられないはずはない。
Ⅱ.日々の心配への顧み
私たちは日々の心配を持つ。マタイ6:34「苦労はその日その日に十分あります。」一日の苦労は一日にて足れりである。私たちは毎日、果たすべき責任を果たしながら生きる者である。ここには何を食べるのか、何を飲むのか、何を着るのか、何を残すのか異邦人が切に求めるものであると言う。広く考えると異邦人とは、この世、この時代とも言える。私たち信仰者はこの世に生きているが、広告と消費、欲望のこの世の流れから冷静になろう。いのちのことが取り上げられているが、私たちは何でも可能のように思いやすいが、いのちをコントロールできない。私たちはこの世に踊らされずに、私たちを顧みておられる神様の愛に信頼し、日々に生きる者である。
Ⅲ.御国につながる顧み
私たちがなすべきことは31節「あなたがたは御国を求めなさい。」である。御国を求めるとは、御国の完成を信じていること、御国をいつも意識していること、御国に期待し待ち望んでいること、…もっと多くの言葉と表現で語れるだろう。御国は今すでにイエス様によってもたらされたが、救いが完成される終末につながっている。御国は受け継ぐものとしても語られている。イエス様が語られた最後の審判の記事に、(マタイ25:34)「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。』」とある。御国に生きることは日々の必要という現実から始まり、永遠につながる祝福、終末の時に引き上げられる希望へとつながっていく。イエス様の救いは日々の現実のなかにあり、永遠のなかに導かれていく。
この世の痛みは多くある。一人一人の内に、教会に、世界に、私たちはこの世のものだけを見ているのではない。永遠に向かっているものであることを忘れないでいよう。