聖書各巻緒論40・新約1・福音書1

聖書:マタイ28:16~20

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
28:17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

4月からは新年度教団・教会メッセージ、教会暦等を語ってきた。忘れられているかも知れないが聖書緒論を再開する。年度末3月26日に旧約聖書39巻最後のマラキ書を終えている。新約聖書に入るが、他のテーマと共にゆっくり進める。

Ⅰ.マタイの福音書の概観
4つの福音書の中でマタイ福音書をどう受け止め、感じておられるだろうか。私は他と比べて秩序正しく整然とした印象を受ける。旧約聖書からの引照は最も多く、旧約の民・ユダヤ人に向けて記されている。冒頭の1:1「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」とある。父祖アブラハムに始まり、ダビデの末からメシアが生まれると言う預言の成就がなされたと語られている。著者はかつて取税人であったレビがイエス様に召されてマタイと改名し、この働きを担った。何時頃書かれたかは諸説ありA.D.50~70年と幅がある。

Ⅱ.共におられるという臨在
マタイ福音書の特徴は多々あるが、イエス様が共におられる、臨在の主であるということが示される。イエス様の誕生前、ヨセフに語られた1:23「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは訳すと『神が私たちとともにおられる』」から始まる。神様が目に見える形でこの世に来られただけではなく、神様が共におられるという大きな恵みが実現された。中間に当たる18:20には「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」とイエス様は言われた。少し戻り16:18ではイエス様は「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」と言われた。18:20にある「二人か三人」という交わりは教会の集まりを指す。教会の真中にイエス様は臨在される約束である。本日の聖書箇所28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」には、永遠に至るまで主の臨在があるという大きな約束が語られている。この世に生きる私たちにこれ以上の励まし、力付け、慰めはない。

Ⅲ.旧約聖書の臨在、新約聖書の臨在
旧約聖書の神様の臨在は各所で表された。荒野での雲の柱・火の柱、会見の幕屋、王国時代の神殿の聖所、さらに広く考えると度々の大きな奇跡があり、預言者や様々な形での人への語りかけが神様からあった。それら全ての対象はユダヤ人のみであった。
新約聖書の神様の臨在はイエス様によって現された。先ずはユダヤに現れたが、彼らはイエス様を十字架に架けて退けてしまった。このことにより、全ての人への救いが表されたとは何と皮肉なことだろうか。復活後、昇天されたことによって、今、姿は見えなくとも全ての人の心に働きかけられ、ご自身を信じた者、受け入れた者と共に歩み、内に住みたもう御方となった。

私たちへのこの大いなる恵みはイエス様の昇天以降、今も確かにある。あなたの現実として、共に歩まれ、内におられる主から力、命、喜び、感謝をいただこう。