聖書:ルカ17:20~26

御国が近づいている6

17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
17:22 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。
17:23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。
17:24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。
17:25 しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。
17:26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。

 

私たちの時代に終わりの兆しを覚え、御国が近づいていることを実感する。「御国が近づいている」を礼拝説教の主題の一つとして6回目になる。

Ⅰ.神の国はただ中にある
神学校卒業後、富山での開拓伝道に遣わされ、精一杯働きに当たっていた。エホバの証人がよく訪ねてきたが、その頃と比べるとソフト路線になった。当時は14万4千人しか天国に行けないという教理があった。私は21節に「神の国はあなたがたの只中にある。」とあり、イエス様を信じれば誰でも天国に行け、定員はないと言った。彼らは、この箇所はパリサイ人との問答で彼らはイエス様を信じず、神の国に入れないので、この言葉に意味はないと言った。彼らと論議しても必ずすれ違いに終わる。神の国は終末に完成するが、終末に関しての受け止め方は正統派のキリスト教でも考え方は広く、幅がある。この聖書箇所から終末に完成する神の国を見ていこう。

Ⅱ.神の国はいつ来るのか
ここに出てくるパリサイ人の考えの誤りを考えていくと正しい受け止め方に導かれる。
1)神の国はいつ来るのか(20節)
「神の国はあなたがたのただ中にある」(21節)とイエス様は答えられ、神の国はこれからではなく既に来ているということが正しい。さらに、神の国はイエス様の宣教によって始まったが、完成を目指す途上にある。
2)神の国は見えるものなのか
「神の国は目に見える形で来るものではありません。」(20節)と答えられたように、神の国は見えるものではない。私たちが見ているものは、様々なこの世の物質である。神の国は有限なこの世の物でできてはおらず、目では見えないが永遠に至るものである。

Ⅲ.神の国はどう進むのか
神の国はイエス様によってもたらされたがどう進展するのか。イエス様は「まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。」(25節)と言われた。イエス様の受難、十字架の死は、神様の計画によってなされていく。主の再臨は何時と特定することはできないが必ず起こる(22~24節、マタイ24:23~39はさらに詳しい)。
さらに、イエス様はノアやロトのできごとを引かれた。神様はノアを通し、主の使いを通してどちらの時も滅びの予告をされた。当時の人々はこれを現実に起こると考えずに滅んでしまった。終末に関してはイエス様ご自身が語られている。イエス様の真実を受け止めている私たちは何ら疑う余地のない真実である。目を覚まして備えることは当然である。艱難を経て神の国はやがて完全に表され、永遠の支配がなされていく。

神の国とは「神の恵みの支配」であると以前から語ってきた。神の国はイエス様の救いによって、私たちの内なる心と魂にもたらされている。私たちは救いによって神の国の民とされている。神の国は神の民の集まりに、交わりに、教会に存在している。神の国は全ての悪が滅ぼされて完成する。その時、神の民は永遠に存在する神の国に集められる。この真理に対して揺るぎない信仰を持ち、主の業を今日も果たしながら歩もう。