聖書:使徒の働き20:6~12

20:6 私たちは、種なしパンの祭りの後にピリピから船出した。五日のうちに、トロアスにいる彼らのところに行き、そこで七日間滞在した。
20:7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
20:8 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんついていた。
20:9 ユテコという名の一人の青年が、窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
20:10 しかし、パウロは降りて行って彼の上に身をかがめ、抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。
20:11 そして、また上がって行ってパンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。
20:12 人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。

本日は世界聖餐日を迎えた。プロテスタント教会で聖礼典はイエス様が守るように教えられた洗礼、聖餐の2つである。洗礼は実際の方法で2つに分かれるが、聖餐は考え方も持ち方も幾つもの形態がある。理解に幅のある聖餐を世界中で共にする世界聖餐日は大きな意味がある。

Ⅰ.初代教会から続いている
使徒の働き20章はパウロの第3次伝道旅行の帰路に当たる。読んでいただいたのはパウロがマケドニアのピリピから船出して、小アジアのトロアスに着いた箇所になる。パウロは7日間滞在し語り続けた。その集会は7節「パンを裂くために集まった」とある。使徒の働き2章は聖霊降臨によるエルサレム教会の誕生を記す。2:42「使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」、2:46「家々でパンを裂き」とある。パン裂きは聖餐式を表し、教会の始まりからとなる。ここで、パンだけですかと問われるだろう。コリント第一10:16「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」御体を表すパンと共に、御血を表すぶどう酒は一つである。

Ⅱ.主の御体、主の血による
「パンを裂く」とは聖餐式を表す。イエス様の言葉からもパンが象徴になることが分かる。ヨハネ6章でイエス様は5千人の給食から天からのまことのパンの話をされた。ユダヤ人たちは先祖が荒野の旅で食べたマナを引き合いに出した。天からのマナによって養われたことは大きな奇跡であったが、限られた期間、限られた人々にであった。イエス様はここで「わたしはいのちのパンです。」と繰り返された。イエス様は完全な救いのためのいのちのパンである。続いて、イエス様はご自身の肉体と血によることを明言された。ヨハネ6:54・55「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」。イエス様が十字架にかかられ裂かれる肉体、流される血潮によることを告げられた。

Ⅲ.喜びの交わりに導かれる
使徒の働き20章にはトロアスの集会で夜、ユテコという若者が事故死することが出てくる。パウロはこの死んだ若者を抱え上げて復活の奇跡を表した。パウロの出発の日が悲しみの葬儀になる所が、感謝と喜びの日に変わった。このできごとの後も続いて集会は行われ、パン裂き(聖餐)も執り行われた。神様への感謝と賛美がささげられたことだろう。ここまでパン裂き(聖餐)を見てきたが、聖餐は喜び、祝うことにある。この夜のトロアスの集会はイエス様による救いという心の内になされた喜びと、死から命に移された若者を喜ぶ祝いとなり、聖餐に相応しいものであった。

聖餐は救いの感謝、罪の赦しと潔さに与る恵み、神の民とされた者の交わりの確認、奉仕と献身に導く。教会の内側を強くし、教会の外へと宣教の働きを進めていく力となる。