聖書各巻緒論47・パウロ書簡3

聖書箇所:コリント第二5:13~21

5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

 

聖書各巻緒論は先週がコリント人への手紙第一であり、今朝はその第二になる。
Ⅰ.コリント教会とパウロ
先週話したように、コリント教会は大きな問題を抱えつつも、アカイアの有力な教会として導かれていた。パウロはコリント教会を心にかけ続けていた。聖書に残された2通の長文の手紙以外にも少なくとも2通の手紙(手紙第一5:9「前の手紙」、2:4「涙ながらにあなたがたに手紙を書き」)を書き送っている。手紙第一にはテモテがパウロの使者として派遣されたとあり、手紙第二ではテトスが遣わされたことが出てくる。両者共にパウロの心と言える愛弟子である。パウロは伝道旅行で2回コリントを訪問しているが、3度目の訪問(12:14)の準備をしていた。パウロの伝道旅行によって生まれた教会の中で、パウロがここまで心を砕いた教会は他にはなかなか無い。

Ⅱ.コリント教会の新たな問題
その中で、コリント教会には新たな火種が生まれてきた。初代教会での大きな問題は、異邦人が救われていく恵みと、同時にユダヤ人信仰者による律法主義への揺り戻しがあった。ガラテヤ人への手紙に詳しいが、他のヘレニズム教会にも大小の差はあれ律法主義が及んでいた。この手紙でも3章では、十戒が刻まれた石の板は人の心の板に記されるようになった(3:3)とある。今や、救いを成し遂げられたイエス様の栄光、人を照らす福音の光、聖霊による愛と力と命に私たちは生かされている。もう一度、自らの救いについて行いを数え、おびえと不安を持って歩む者ではないことをパウロは語る。これら律法主義者はパウロに反論し卑しめる者であった。パウロは彼らの誤りを厳しく正している。

Ⅲ.コリント教会への光
パウロはコリントの人々に福音の輝きの中に歩むことを切々と語る。「私たちはこの宝を土の器の中に入れています。」(4:7)、「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(4:16)、「地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがある」(5:1)、「今は恵みの時、今は救いの日です。」(6:2)、「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」(6:10)、「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(8:9)、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」(12:9)、「私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。」(13:8)、他にもっと多くを挙げられる。この手紙は公の手紙であり、コリントの諸問題の処方箋であるが、パウロが持っていた福音の理解、実践をつぶさに知ることができる。

今朝の聖書箇所は、イエス様の愛によって新しく造り変えられた者は、その恵みに生き、証しし、この世に遣わされると語られる。恵みによって強くされよう。