待降節第二聖日礼拝

イザヤ11:1~10

11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。
11:3 この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
11:4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
11:5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。
11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。
11:10 その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。

待降節も第二節を迎え、今週末はメサイア公演開催となる。主の大いなる栄光が表されるように祈り期待し、備えよう。

Ⅰ.イザヤの語る救い主
預言者イザヤは神様に長く仕えたが、北王国イスラエルの滅亡を見、南王国ユダも亡国の危機にある時代に主の御旨を語った。彼が預かった神様の使信の中心は、エルサレム陥落、ユダの滅亡、バビロン捕囚、捕囚からの解放、メシアの誕生、メシアの御業、メシアの再臨による永遠の御国の完成である。神様の救いの歴史の全幅を語ったスケールの大きな預言者である。
イザヤのメシア預言はメサイアに歌われ、7・8章のインマヌエル預言、9章のひとりのみどりごの預言、そのつながりが11章になる。

Ⅱ.降誕される救い主1~5節
救い主はダビデの血統からとユダヤ人は考えたが、1節「エッサイの根株」とある。エッサイはダビデの父だが、立木が切り倒された根株に希望はないが、そこに新しい希望が生まれる(6:13)。救い主イエス様は肉による系図ではダビデの家系と言えるが、この世の関係を超えた神の子の霊的な誕生であることを示す。
2節は救い主が豊かな霊に生きる御方であると記されている。「主の霊がとどまる」メシアは油注がれた者であり、聖霊の豊かな注ぎである。「知恵と悟りの霊」神様からの知恵と知識によって真実を見分ける力を持たれている。「思慮と力の霊」知恵と知識を実行する分別と具体的な力に満ちておられる。「主を恐れる、知識の霊である。」救い主は単独で行動されず、聖霊によって父なる神様と一つとなり働かれ、父なる神様に従う姿勢を私たちに教えておられる。3節以降は神様による正義と公正による裁き、断罪が強調され、そこから当時如何に不正、不真実がまかり通っていたかが分かる。この救い主はイザヤの預言通りに700年後にベツレヘムにお生まれになった。

Ⅲ.救いを完成される救い主6~9節
さらにこの世のものでない救い主による神様の支配、ユートピアのような世界が描かれる。肉食動物と草食動物が仲良く暮らし、乳飲み子、幼子を害獣が襲うこともない。創世記1:29・30には全ての生物は草食とあり、天地創造の世界に一挙に戻ることが示される。6節には小さな子どもが牧者となることが記され、救い主イエス様ととれる。救い主が仰がれ導かれる世界は、被造物全てが互いに平和に穏やかに暮らすことができる。
イエス様は既にお生まれになり、私たち一人一人の救いを成し遂げてくださった。その救いに与るためには個人的な応答が必要である。神様と私という関係が築かれるならば私たちに神様の平安と永遠の約束が与えられる。そこに留まらず、イエス様が再び来られ、悪が滅ぼされ、世界が新たにされ、救いは全てのものに及んでいく。現在この世界に、悪しき力が世界を侵食し、人間の社会も、自然界も呻き苦しんでいるが、神様は全世界の救いを完成してくださる。

救い主イエス様は「もろもろの民の旗として」「栄光に輝く」御方として再び来られる。その日まで私の主として仰ぎ望もう。