待降節第三聖日礼拝

聖書箇所:ルカ1:67~80

1:67 さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。
1:68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。
1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
1:71 この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
1:72 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
1:73 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
1:74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
1:75 私たちのすべての日々において、 主の御前で、敬虔に、 正しく。
1:76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
1:77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。
1:78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
1:80 幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。

 

待降節も第三節を迎えた。昨日のメサイア公演も祝福をいただき感謝。次週のクリスマス礼拝、降誕日を待ち望もう。

Ⅰ.神様の取り扱い
ルカ1章には救い主メシアの降誕に関わる祭司ザカリヤ・エリサベツの老夫妻、婚約中であるがうら若いマリアの3人が出てくる。ザカリヤ夫妻は「神の前に正しい人で、主の命令と掟を落度なく行っていた。」(1:6)とある。当時、祭司は1万8千人おり、24組に分かれても1組750人である。神殿の奉仕は年2回であり、その朝夕の努めは4人ずつなのでくじ引きで決められた。この時、生涯1度である香を焚く栄誉ある務めがザカリヤに当たった。ザカリヤは聖所で御使いガブリエルから夫妻に男の子が与えられ、救い主に先立ち道備えをすることを告げられる。ザカリヤは信じることができず口がきけなくなった。ヨハネが生まれるまでの10か月間をザカリヤは無言で過ごす。アブラハムのイシュマエル誕生後の13年間、モーセのミディアンでの40年間、…神様は器を整えるための取り扱いをなされる「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(へブル12:6)。成長へと歩ませる神様の期待がそこにある。

Ⅱ.神様が働かれる証し
神様は御力を働かせてザカリヤ・エリサベツ夫妻に男の子を与えられた。老夫妻という特別な意味に人々は驚き、喜び、感謝をささげる。ヨハネの誕生がいかに特別であることは神様への「恐れ」(65節)が伝わっていったことが証しである。ヨハネという命名が慣習にはなかったこと、10か月口がきけなかったザカリヤが堰を切って神様をたたえ始めたことから神様への恐れが人々に伝わっていった。
やがてヨハネは成長しヨルダン川の荒野で悔い改めを語り始め、人々に神様を恐れる心が広がっていった。パリサイ人・サドカイ人(マタイ3:7)、取税人(3:12)、ローマ兵(3:14)さえも続々とヨハネの元にやって来た。イエス様が福音を語られる前に人々の心を整え、神様に向けさせていく神様の業に用いられていった。現代、神様を恐れない人間中心の世界が混乱や逸脱の大きな原因である。神様を正しく恐れるならば、私たちは正しく歩み、どんな事態にも動かされることは無い。

Ⅲ.神様への賛歌
ザカリヤは聖霊に満たされて預言した。前半は救い主メシアの預言の成就、後半はヨハネの使命についてである。ザカリヤは10か月の取り扱いを通して神様の前に空しくなり、遜ることの大切さを知った。何よりも神様の御心を喜び、自らもそこに生きる者であることを悟った。この10か月は一つの命が人として生まれるための期間であり、ザカリヤにとってはなお信仰が成熟して、命となるために必要な期間であった。救い主が過去からの預言の通りに間違いなくお生まれになること、全ての人を照らし真の平和をもたらせられることをたたえた。

主イエス様の降誕日を控え、私たちが何を中心としているのか、改めて問い直そう。傷んだこの世界に正しい義なる光が照るように、光の元に共に集まり、真の平和を持つ者となろう。