聖書箇所ヨシュア記3:5~17

3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」
3:6 ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。
3:7 主はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。
3:8 あなたは契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川の中に立ち続けよ』と命じよ。」
3:9 ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」
3:10 ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を必ず追い払われることを、あなたがたは次のことで知るようになる。
3:11 見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしている。
3:12 今、部族ごとに一人ずつ、イスラエルの部族から十二人を取りなさい。
3:13 全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」
3:14 民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
3:16 川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。
3:17 主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。

 

先週は4月第一週の創立記念礼拝であった。次週は第一回目のウエルカム礼拝になる。その後2024年度の教団聖句、教会聖句から3回にわたって語っていく。ヨシュア記3~4章のヨルダン渡河の箇所を元旦礼拝、教団総会開会礼拝で語ってきた。大きな節目を迎えていることを覚える。

Ⅰ.過去の守りへの感謝
私たちはどんな時も神様にあって「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」(米田豊師、ホーリネス弾圧時の獄中所感)と言うことができる。イスラエルの民は荒野の40年を終え、モアブの草原からヨルダン川越しにカナンの地を望み見ていた。荒野の40年と言うと神様への不信仰、不従順から懲罰を受けたという面のみ考えやすい。神様の守り、助け、支えがなければ1日も過ごせない過酷な環境にあった。200万人に及ぶ民が何もない荒野で移動しながら暮らす。必要な水、食料、衣類、天幕、また、敵との戦い等、イスラエルが守り通されたのは神様による御業であった。

Ⅱ.現在の危機にある平安
時は春先でありヨルダン川はヘルモン山の雪解け水、春の雨によって最も増水している時期である。渡河は普通に考えるなら最も考えられない最悪の時であるが、神様はこの時を備えておられた。
方法は、祭司に担がれた契約の箱が2千キュビト(900m)先を進む。神様の聖い臨在の表れと、聖い神様を畏れ従う姿勢を表している。
人が成すべきことは、祭司が契約の箱を担ぎ、イスラエルの民が従っていったように、神の民が神様の御心に従うことによって事はなされていくという神様への従順でした。
目前には春先の大水が渦巻いている。ヨルダン川の向こうにはカナンの七部族が武装して、要塞のような町でイスラエルの民を待っている。後ろは今まで通ってきた荒野である。イスラエルの民にとって前も後ろも進み行くには大きな危機であった。神様は何時でも働いてくださっているが、危機の時にこそ明らかに働かれる。

Ⅲ.将来への確かな信頼
イスラエルの民は20歳以上の兵役に就ける男子だけで60万人を超えていた(民数記26:51)。老若男女合わせて200万人を超えていただろうし、家畜も家財も運んでいた。徒歩で渡りきるのに数時間以上かかり、この間せき止められた水の量は何万トンになっただろうか。目に見えないダムが築かれていたような奇跡が表された
イスラエルの民にとって代々伝えられていく証しとして記念の石塚が築かれた(4章参照)。このことはカナンの先住民にとってどれ程大きな恐れになっただろうか。

私たち個人にも目前に大水が溢れるヨルダン川があるかのように感じることがある。私たちの教会にも、私たちの教団にもある。祈り従っていく中で、その時にこそ神様の御業が表され、神様の栄光を拝することができる。神様を信じ、先立たれる臨在の後に従って行こう。