聖書箇所 マタイ8:5~13

8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。

今年から毎月第三週を基本にウエルカム礼拝を行う。イエス様は多くの言葉を力と権威を持って語られたが、マタイ5~7章は山上の説教と呼ばれる内容の濃い説教であり、その後、イエス様が山から下られ、貧しさ、病、苦しみのある世界で実際の働きに携わられる姿が出てくる。

Ⅰ.百人隊長の人となり
8章前半は3つの癒しの話、ハンセン病患者の癒し、ローマ軍の隊長の僕の癒し、ペテロの姑の癒しである。汚れた病とされていた人、ユダヤ人から見た外国人、女性が登場する。2千年前のユダヤの社会で差別を受けていた人たちである。
ローマの百人隊長の話を見る。今、聖書は全世界で読まれ、キリスト教は世界大の宗教であるが、当時はイスラエルの狭い世界のものであった。ユダヤ人以外は詳しくは知らなかった。その意味ではローマの百人隊長は神様から遠かった。百人隊長はイエス様のことを聞き、知るにつれただの人ではないと思っていった。大事な僕が重体になり、イエス様ならばという思いで御元にやってきた。百人隊長は軍隊という厳しい世界で一人を大切にし、イエス様に丁寧に話をしている。立派な人格を持った人であった。

Ⅱ.百人隊長の信仰
百人隊長は人格的に優れた人であったが、それ以上のものを持つ。百人隊長は「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8節)と言っている。この言葉は神様の前に自らを低くする言葉である。神様の大きさを良く知り、自分の小ささを良く知った上でなければ出て来ない。イエス様はこの人に対して「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」(10節)と言われた。人は誰かを判断するのに外見、言葉、行い等で判断しやすい。この時、外国人で武装した百人隊長を信仰深いとは誰も思わなかったのではないか。
イエス様は人には見えない心と魂をご覧になっている。

Ⅲ.百人隊長への答え
この世の評価は、履歴書の項目のように、見えることがらで成り立っている。そのような面でしか客観的に評価できないとも言える。私たちは見えることで評価されたくないとの思いもある。何時も傷つく思いをされている方もあるだろうと思う。神様はこの世の評価で判断されるような方ではないことをイエス様は表してくださった。当時は差別された外国人の百人隊長を喜んで受け止められた。イエス様は「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」(13節)と百人隊長を送り出された。イエス様は百人隊長の神様への信仰を喜ばれ、その願いが自分のためではなく、他者のためであったことを受け止められ、大きな奇跡をもって答えてくださった。

神様が私たちをご覧くださっているのは、私たちの心と魂である。目に見える部分の評価ではなく、目に見えない部分の評価である。誰もが心と魂を神様に向けることができる。神様は喜んで私たちを受け止めてくださる。この愛に生かされよう。