聖書箇所:イザヤ42:5~9
42:5 天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。
42:6 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。
42:7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。
42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。
42:9 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」
新年度もひと月が経ち5月を迎えたが、本年度の教会聖句を語る機会がなかった。コロナ対応でどこでも大変だったが、教会も一つの区切りを持って本年度を迎えた。宣教も教会形成も仕切り直しという思いを持ち、祈りつつ開かれてきた御言である。
Ⅰ.全てを越えた神様の契約
私たちは神様の確かさを全てに認めることができる。本年度の準備の中で特に「契約」に思い至った。社会でも個人でも変わらない約束として契約を結ぶ。聖書には神様と人との契約が出てくる。世の中の契約は互いに必要を認め同じテーブルに着くことから始まる。神様と人との契約は、神様が準備され神様の側から呼びかけられる。Cf.神様はアダム、ノア、アブラハムらに語られ、モーセに律法を授け、… 新たにイエス様を通して全ての人への救いの約束を遂げてくださった。神様はその上で、信じる者の群れである教会に宣教の働きを託し、主の日まで神様の民が地上で使命を果たすことを求められた。この契約を神様は変わることなく持ち続けておられ、私たちがここに立つことを願われている。
Ⅱ.不信仰でも変わらない神様の契約
神様はこの箇所で人との契約を語られている。最初に、5節は万物の創造、特に人間の創造から話が始まる。神様は生き物の中で特別に人間に「息」を吹き込まれ(ネシャマー、創世記2:7)、「霊」を授けられた(ルアハー、創世記6:3)。人間が神様を愛し、交わりを持つことができるように願われた。神様の願いは初めの人アダム、エバによって早々に破られた。神様は人が思い計ることが悪く、行いと言葉が汚れていても見捨てられることは無かった。預言者イザヤを通して語られるこの時も、神様への不信仰、自分たちの身勝手が積み重なっていたが神様は変わることなく呼びかけられている。6節に「義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。」とある。罪を赦し、導き、支え、祝福を表されるとの契約を再確認されている。
Ⅲ.完成を目指す神様の契約
7節「見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。」メシア預言はイザヤ書に繰り返されるが、この言葉をイエス様が引用された(ルカ4:18)。イエス様によってこのことは実現した。私たちを救いに導く神様の栄光、全てのものに優る栄誉がイエス様によって現された(8節)。イザヤの時代には新しいことを告げる、起こる前に聞かせる(9節)という預言であった。このことは確かにイエス様によって成就した。全歴史を通して進められてきた神様の契約は、今も確かに私たちの前にある。神様の契約は終わりの日の完成を目指している。全世界、全歴史を超えた壮大なドラマが確かにあり、私たちもその一員としてそこに加わっている。
私に何があるのかと思わなくて良い。あなたが神様と契約を結んだ一員であることが大切である。神様が何を私に求めておられるのかをへりくだって聞き、神様の御心に従順に従っていこう。