森山諭師の略歴

若き日の森山諭師

森山諭師は1908 年2月14日、福島県耶麻郡塩川町下遠田において誕生されました。1926 年、18 歳の時に新生を体験され、1928 年には生涯の伴侶となられたサチ様と結婚されました。

先生は幼少のころから、「死とは何か、生とは何か」を問い、キリスト教、神道、仏教、哲学の書物に親しまれました。その結果、極度のノイローゼに陥り、多くの病魔に取りつかれ、鉄道自殺寸前にまで追い込まれました。その時、「おのれを捨て、おのが十字架を負うてわれに従え」という聖句が心に響き、あれこれと神とやり取りする中で鮮やかな新生ヘと導かれました。

1937年8月、日中全面戦争突入という有事の中で、先生は御牧碩太郎師を招いて磐梯聖会を開催、そして同師より受洗、さらに月刊誌『待望』を発刊されました。1941年12月7日夜、聖霊に迫られて泣きつつ書いた非戦論のために月刊誌『待望』は発禁処分となりました。しかし、先生の霊魂ヘの情熱と権力に対する抵抗は、このことを通してさらに激しく燃え上がり、戦中にもかかわらずその伝道は朝鮮にまで及びました。

駒込集会所

1951年7月、日本イエス・キリスト教団創立に参加、同時に按手礼を受け、待望教会牧師となりました。58 年4月、東京に進出。さらに中田羽後師との出会いによって今日の荻窪栄光教会が誕生したのです。先生の純粋にして、積極果敢な信仰は超教派の働きによく用いられました。キリスト再臨待望同志会会長、日韓親善宣教協力会会長、日本ケズィック・コンベンション中央委員、日本キングスガ-デン顧間など枚挙にいとまがありませんでした。

ことにだれよりも強い韓国に対する謝罪と宣教の思いは、焼き討ち事件があった堤岩里教会の再建、木浦共生園里親運動の推進、『たといそうでなくても』の映画化などへの協力という形で具体的に表されました。またくり返される政治家の暴言のたびに、日本人の良心として、韓国の人々に謝罪の声明を出され、教科書問題の時などは、時の首相、外相、文相に上申書を届けるなど、実に粉骨砕身、日韓両国の和解と親善のために尽力されました。

東京での最初のイースター

1966 年から始まった異端との熾烈(しれつ)な戦いは、厳しい伝道牧会になお拍車をかけることとなりました。わけても前途ある若者を統一協会から救出する働きはまさにいのちを削るものでした。

先生の生涯は十字架の愛と再臨待望を軸にしての伝道牧会、さらには国家権力や異端異教との壮絶な戦いにあてられました。その間、月刊誌『待望』、聖書研究、説教、伝記、比較宗教、旅行記、小説など47冊の幅広い書籍を著されました。

1996 年7月22日、日本イエス・キリスト教団顧間、荻窪栄光教会元老牧師、森山諭師は福音の戦士として88 歳の生涯を全うされました。告別式において本田弘慈師は「当代随一の伝道者」と評されました。

異端と戦われた森山師


長女信子師は「私たちの家庭は母子家庭、母は未亡人でした」と公言しておられますが、確かに先生は家庭を顧みるひまがないほど伝道一筋に励まれた方でした。遺骨はイエス・キリストの再臨される朝を待ち望みつつ、八王子東京霊園の荻窪栄光教会墓所に静かに安置されています。

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