中田羽後師は、明治から昭和初期にかけて活躍した宗教家であり、伝道者であった父重治と母カツの次男として明治29(1896)年9月9日に秋田県大館で生まれました。羽後の国(今の秋田県)の地名に因んでの命名でした。羽後師は、若き日に人生の悩みの中にあったとき、「おまえは賛美をもってわたしに仕えなさい!」との神様の御声に触れたのち、その生涯を「聖歌」の編纂と発行を通してキリスト教の伝道に捧げました。
今日、教会の礼拝でささげる賛美を通して私たちは毎週中田師のスピリットに触れています。また私たちの教会が毎年クリスマスの時期に公演を行い、すでに50回以上にわたり継続している日本語訳「メサイア」を通してもその偉大な働きに触れることができます。
中田師はご自宅の土地と建物の全てを神様に捧げ、現在の地に荻窪栄光教会を創立し、森山師と共に教会発展の基礎を築いてこられました。中田師のご生涯を大江捨一師が記した略歴記述(「聖歌の友」1974 年8月号)により振りかえってみます。
明治29年9月9日 | 秋田県大館にて中田重治、カツの次男として誕生。 |
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明治33年 | 家族に連れられて上京。 |
明治36年 | 神田錦華尋常小学校に入学。 |
明治42年 | 同校卒業。青山学院中学部に入学。 |
大正4年 | 同校卒業。 |
大正5年 | 聖書学院に入学。8月、大島にて全き献身に導かれ、教会音楽をもってご奉仕に立つ決心をした。 |
大正8年 | 渡米。ロスアンゼルス聖書学院に入学。 |
大正9年 | シカゴ・ムーディー聖書学院に入学。 |
大正10年 | 帰国。聖書学院にて教えつつ、「リヴァイヴァル聖歌」の編集に当る。 |
大正12年 | 「リヴァイヴァル聖歌」を出版。と同時に日曜学校賛美歌をも作詞する。「パラパラ落ちる雨よ」などはこの時作られたものである。 |
大正12年9月3日 | 関東大震災の直後、ビリー・サンデー氏の聖歌指導者ロードへーバー氏が来日。彼の勧めに応じて再び渡米する。 ウィリアムソン氏のウェストミンスター合唱学校、ガン音楽学校、シカゴ音楽大学、ノーザン・バプテスト神学校などに昭和2年まで学び、学位を修得した。 |
昭和2年8月28日 | 今井朝子と結婚。帰国。その後、純子、祐治の一男一女を与えられる。 |
昭和6年 | 荻窪の現住所に移転する。 |
昭和7年 | 「リヴァイヴァル聖歌」を編集、東京ヴォランテヤコワイヤ発足。「メサイア」の全曲演奏を実現。戦後も東京チャペルセンターにて続けられ、同チャペルセンター閉鎖後の晩年に至るまで、合計50 数回の「メサイア」公演を続け、今日の「メサイア」時代を作る。 |
昭和22年~35年 | 東京チャペルセンターのミニスター・オブ・ミュージックとしてチャペルセンター・コワイアを指揮して活躍した。 |
昭和35年 | 彼の土地建物を献げて伝道を開始。後に日本イエス・キリスト教団に加入。その教職とせられる。また同年現在の「聖歌」編集を終わり、11月30日に献納式をする。賛美歌の中に口語体を取り入れたのは、これが初めてである。 |
昭和37年5月~12月 | 北海道にて放送伝道に従事する。 |
昭和41年 | 彼の献げた土地における会堂建設に努力する。 |
昭和43年 | 狭心症のため衛生病院に入院。 |
昭和44年3月 | 父中田重治を記念して、パイプオルガンを献納。 |
昭和44年1月 | 和田健治氏と共に、月刊「聖歌の友」を創刊し、その主筆となって全国の福音主義教会における音楽向上を目ざした。なお現在までに「聖歌の友」社(教会音楽研究会)より、和田健治氏と共に邦訳「メサイア」「青年聖歌」「聖楽独唱名曲集」「こどもせいか」などを出版した。 |
昭和45年 | 心筋梗塞のため聖路加病院に入院。 |
昭和49年7月14日 | 心筋梗塞のため荻窪栄光教会での集会中に倒れ、眠るように召天。 |